前回、東日本大震災当日の揺れから、3日後の従兄の行方不明を知るところまで書きましたが、ハッと気がつきました。
主人のこと書いてなかった!
忘れていたわけではありません。。。忘れてたけど(汗)
目次
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前回までの話
地震の後、勤務先の小学校から家に戻り、余震の続く暗い中、片付けをしたこと。
兄弟のように育った従兄が津波で亡くなったこと、などを書きました。
①
②
③
地震のあった日の夜
話を揺れのあった日の当日まで、一旦戻します。
余震の続く真っ暗な中、息子はお隣からいただいたカップラーメンを、私はクラッカーを食べた時まで。
食べ終わった午後8時半頃でしょうか。
真っ暗だし、今できることもないし、今夜はもう寝ようかと話し合っていると。
それまで静まり返っていた私のスマホが鳴ったのです。
ようやく主人からの電話がつながったのでした。
充電が残り少なかったので、とりあえず手短に、息子も私もケガもなく無事であることを伝えました。すると……。
うちは海沿いじゃないから大丈夫だと思っていた。
それほど心配してなかったよ。
とのこと。
それは、まあ良いんですよ。確かに私たちには、ケガもなかったんだから。
でもね。
彼はその瞬間(電話をよこした瞬間)何をしていたと思います?
四国の出張先で、呑んでたんですよ。。。
出張先で、夕食もかねて呑むのは良くあることですよ。
でもさ、心配しなさすぎじゃない?
ガタガタと余震で揺れる真っ暗な部屋で、あ然としたのを、
今もはっきりと覚えていますよ。
(大きい文字にちょっと感情こもってます)
四国から3日かけて帰ってくる
四国に出張中だった主人は、仙台まで帰ってくるのがとにかく大変でした。
東北自動車道は、あちこち崩れているうえに、自衛隊などの緊急車両専用の道路になっていました。
新幹線も鉄道も線路や駅が壊れて使えない状態。
仙台港も津波で壊滅状態だったため、船をつけることもできない。
人も物資もなかなか来られない状況だったのです。
どこからも助けも援助も来られない!
この状況は、絶望しか感じませんでした。
主人は、まず東京まで飛行機だか列車だかで来たようです。
東京の営業所で車を借りて、新潟方面から山形経由で仙台に戻ってきました。
3日がかりだったようです。
3日目の夜に家に到着。
電気が開通したのと同時でした。
彼が家に着いて数十分ほどで、電気がついたのです。
私と息子は、前の晩も双眼鏡で、電気のついている範囲が広がっていくのを何度も確認していました。
刻々と明るい範囲が広がっていくのは心強かったです!
とうとう我が家まで来た!!!
明るいってホッとしますね。
その日の昼間に、隣にある小学校の校庭で、ひとり15分だけの充電サービスがあったのでスマホを充電してもらっていました。
それで、ほんの少しだけ回復していたスマホの充電ですが、これで心配事が一つ減りました。
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食料とお風呂を探して
新潟あたりから電話をよこしていた主人に「パンを買って来て」と頼んでいたので、翌日の食べ物は何とかなりました。
※こういう時は、料理をせずにすぐに食べられるパンが大人気で、すぐに手に入らなくなっていました。
それでも少しでも食料を手に入れたいと、近所のスーパーの列に3人で並びました。
しかし、さすがに4日目あたりからは、流通が途絶えているせいか食料といえるほどのものは、どこのスーパーにもなくなってきていました。
※スーパーでは、店の外に品物を並べておいて、順番が来た人から必要なものをかごに入れていく方式(ひとり何点までという制限あり)が多かったです。
どこも店の中は危険で、入ることができませんでした。
「ここじゃ、並んでも時間のムダだ。他へ行こう」
主人が仙台に戻ってくる途中、山形あたりには普通に食料が売っていたというのです。
仙台の中でも山形に近い辺りは、震度5程度ですんだみたいだったんですよね。
ガソリンは半分弱くらいでしたが、幸い我が家の愛車はハイブリットカーでした。
山形へ向かうことにしました。
山形の人の温かさ
山形のスーパーで無事に食料品を買うことができました。
そのスーパーの向かいは、うどん屋さんになっていました。
「うわ!温かいもの、食べたいね」
何日も温かいものを食べていなかったので、無性に温かい汁物が食べたかったのです。
お店の駐車場に車を移動させてみると、昼の開店時間が終わったばかりでした。
がっかりして、帰ろうとした時に、お店の方が出てきて声をかけてくれました。
「宮城から来たの?」
うちの車のナンバープレートを見て、出てきてくれたようでした。
お店の方は、閉めるのを遅らせてくれました。
「大変だったねえ」
うどんの温かさと人の温かさ。
しみじみと感じながら、いただきました。
そのお店で、近くのお風呂を教えてもらい、直行。
温かい食事とお風呂で生き返ることができました。
石巻へ
無事に食料をゲットできた翌日、主人は会社のある石巻へ行きました。
無事だった地域にある、会社の方のアパートに泊まり込みながら、避難所を回り、従業員さんの安否を確かめるためです。(残念ながら、おひとりの方が亡くなっておられました)
主人から送られてきた石巻の写真を見て愕然としました。
石巻には、震災の1年前まで住んでいました。
結婚してからのほとんどの期間、住んでいた第2の故郷です。
その変わり果てた様子に、言葉を発することができませんでした。
船がいくつも乗り上げているメインストリート。
重なった車と、泥の塊のような瓦礫の山。
それでも多分、本当に酷いシーンは送って来なかったのだと思います。
後で話を聞くと、そうとう悲惨な状況だったことが分かりました。
注意
この下はちょっとショッキングなことを書きますので、ここで引き返されるか、または下のお花の写真までささーっとお進みください。
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数日間、石巻で過ごしてから帰ってきた主人の話です。
津波に遭った小学校の校庭には、流されてきた車が何十台もありました。
小学校は避難所にもなっていたため、たくさんの方が暮していました。
ある時、子どもが車の中を覗いてしまったようなのです。
津波で流されてきた車の中には、当然ながら運転していた人がいるわけです。
子どもたちは、そのままになっていたご遺体を見てしまったのですね。
どれほどショックだったことか、と思います。
また、主人の同僚の家(一戸建て)では、門のところにご遺体が流されてきていたとのこと。
当時、ご遺体の回収は遅々として進まなかったため、何日間もそのままになっていたのだそうです。(多分、毛布は掛けられていたのだと思います)
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主人は石巻とかかわりが深かったため、私たちの結婚式にも石巻や女川の方々がたくさん来てくれました。
その出席者の半分は、津波で亡くなりました。
私の知人にも亡くなった方がいます。
亡くなった方ってどうしてるんでしょうね。
石巻では、震災の後、心霊体験の話を聞くことが増えました。
某コンビニは、夜中になると、誰も通ってないのに自動ドアが何度か開く、とか。
(私も良く知っているコンビニです)
亡くなった方たちが、帰りたくて、もしくは残した家族が心配で来てるんでしょうか。
残された人たちが、帰ってきてほしいと思うあまりに、そう思い込んでしまうのでしょうか。
震災後に、買った本があります。
3.11後の霊体験を聞き取ってまとめた、真面目な本です。
胸が詰まって、涙が止まりませんでした。
もし、興味がおありでしたら、ぜひ読んでみてください。
まとめ
ようやく先が見えてきました。もう1回で書き終わるかと思います。
書き出してみたら思いのほか長くて、自分でもびっくり。でも、ここで書ききってしまえば、自分の中でも一区切りつけられそうです。
新型コロナで、品物が手に入らなかったり、先行きが見えなかったりする部分が、震災後とかぶってしまって、なかなかキツイです。時期的にも、3月だし。
次回は、津波に遭った主人の実家の片付けや、ガスがなかなか通じない中での生活、4月の余震など書きたいと思います。
良かったらお付き合いくださいませ。
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