2011.3.11を私は仙台市内の勤務先の小学校で迎えました。
あれから間もなく9年が経つんですね。でも、昨日のことのように記憶に焼き付いています。というか一生忘れられないんでしょうね。
震災の体験談なんてきっとほとんどの方は聞き飽きているのではないかと思いますが、自分用の記録もかねて書き残しておきたいと思います。
目次
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当時の背景
私たち家族は仙台市の街中に近い場所にある8階建てのマンションに住んでいました。
築30年になろうかという古い建物で、免震構造なんて画期的な物とは縁のないマンションです。
私は市内の小学校で教員補助として学習指導の仕事をしていました。
息子は高校1年生。
主人は、仙台から(震災後に一気に有名になった)石巻市に通っていました。
当日(地震の直前まで)
いつものように主人と息子を送り出した後、私も車で職場へ向かいました。
職員室の自分の席に着いた時に、マナーモードにしようと鞄の中のiPhoneを取り出してびっくり。
充電が半分もありません。
毎晩、寝る前に充電器にさしておくのに、この日に限って忘れていたようです。
(めずらしいなあ)
と思いつつも、気にせず鞄にしまい込みます。どうせ教室には持っていけないので、しばらくiPhoneは使いません。
この日は、二日ほど前に震度4の地震があり、そのことでクラスもちょっと落ち着きがありませんでした。
(私は担任の補助として大抵一つのクラスに入っています)
宮城の子たちは震度4くらいだと慣れているためか、その時もちゃんと机の下に隠れない子がいたりして少々問題になっていたのです。
その子が教頭先生に呼び出されて注意を受けたり、担任の女性教諭が妊娠中で体育の授業を代わりに教頭先生が行ったりと、ちょっと落ち着かないムードがありました。
でも、まあ何とか無事にその日の授業も終わった午後2時30分ごろ。
この日は金曜日。月に一度、子どもたちが地域の人たちに見守られながら2時半に一斉下校するという予定の日でもありました。
2時半きっかりにさようならをし、みんなすぐに学校の外に出ていきました。
子どもたちを見送った後、私は職員室に戻ってその日の日報を書き始めたのです。
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初めて体験する強烈な揺れ
日報を書き始めて間もなく、ガタガタと職員室中が揺れ始めました。
下から突き上げるような揺れです。
この揺れ方はマズイ!!!
大きな揺れが来る!と直感しました。
私はこの震災が起こる前にも震度6クラスの地震を4~5回は経験しています。
宮城は地震の多いところなのです。
考えることなく体が動いて、机の下に潜り込みました。
直後に廊下をはさんだ校長室から校長先生が飛び込んでいらして、
「一次避難!一次避難!」
と叫びました。校長室のテレビからでしょうか。緊急地震速報のチャイムがかすかに聞こえていたような気もします。後から付け足された記憶かもしれませんが。
そして、この「一次避難!」の声を聴いた瞬間になぜか私は校庭にいる子どもたちを避難させなくちゃ!と思い、机の下から走り出して校庭へと向かいました。
後から考えれば「一次避難」なんだから、とりあえず机の下に潜って自分の身をまず守れ、という意味だったのかもしれませんが、なぜかその時の私は「校庭にいる子どもたちを避難させなくちゃならない」と思い込んでしまったのです。
職員室は校庭に面した1階にありました。
机の下から飛び出した私は、すぐ近くにあるドアに向かって走りました。
その時点ではまだ震度3~4程度だったと思います。
ドアを出て階段を2段ほど降りると校庭です。
でも、校庭に着くころにはもう揺れは震度6程度まで強くなっていました。
校庭にいるときに地震が来たらどうすると思いますか?
校庭の中央に行くんです。
建物や遊具が倒れてきても大丈夫なように。何もない中央に集まるんですよ。
すでに校庭にいた先生方が、子どもたちを集めて中央に向かっていました。
私もみんなに声をかけて中央部をめざして走ろうとしましたが、もうその時には走るどころか、歩くことさえままならない揺れになっていました。
例えるならば、トランポリンです。
大きなトランポリンの上で、誰かがびょんびょん飛び跳ねているすぐ脇を走り抜けるところを想像してみてください。
立っていることも難しいと思います。
そんな状況でした。
終わらない揺れと襲い来る地割れ
なんとか校庭の中央にたどり着いた私は、自らは中腰になってバランスをとりながら子どもたちを地面に座らせようとしていました。
その時、4年生の男の子がプールを指さして
「先生!水!水!」
と繰り返し叫んでいました。
振り返ると、あまりの揺れでプールの水が波を打ってあふれだしていたのです。
その子はしばらくの間「水が!」と叫び続けていました。
やがて揺れがいくらか収まってきました。震度でいうなら3程度に。
隣に居た先生と会話しようとした次の瞬間です。
ダーーーーーン!!!
という音とともに地面がドンと落ち、私は校庭の土の上に放り出されてしまいました。
そう。文字通り地面から放り出され、尻もちをつきました。
その後の揺れはすさまじく、もう一度立てるような状況ではありません。
しかし、尻もちをついた場所に向かって地割れが走ってくるのが分かりました。
もう無我夢中です。
這って地割れから逃れます。
でも、逃げた先にも新しい地割れが迫ってくるのです。
どこにも逃げる場所なんてない。
もう5分以上経ってるのに地震は終わらない。
こんなに長く続く地震なんてある?
これは、日本が沈没してしまうんじゃない……?
真面目にそう思いました。世界中が壊れてしまうんじゃないかっていう、そのくらい激しい揺れが長く長く続きました。
地震が収まった直後
ようやく揺れが収まった後、一瞬みんな呆然としていたような気がします。
ハッと我に返ったのは、学校の建物の中から先生たちに導かれた子どもたちがワラワラと何十人も走り出してきたときです。
まだ、校内にこんなに残ってたんだ!
出てきた子どもたちを慌ててクラスごとに整列させました。
校庭に残っていた子たちと合わせて100人以上はいたでしょうか。
(マンモス校なのです)
その内に帰宅途中だった子たちも学校へ戻ってきました。
※学校の決まりで通学途中で地震に遭った時は、学校と家の近い方へ行くことになっています。
興奮している子、泣いている子、表情を硬くしている子、みんなそれぞれの位置に並びました。
私の担当クラスの女の子も泣きながら戻ってきてしゃくりあげながら
「どこかのおばさんが手を引っ張ったからタイツが破れた」
と訴えてきました。
確かに膝がボロボロに破けていますがケガはないようです。
詳しく話を聞くと
帰宅途中でコンビニ近くのブロック塀のそばを歩いていたら地震が来た。
コンビニの所に立っていたおばさんが手を引っ張ってブロック塀から離してくれた。
その時に膝をついた状態で引きずられたためにタイツの膝が破けてしまった。
とのこと。
昭和53年の宮城県沖地震では倒れたブロック塀の下敷きになって亡くなった小学生が何人もいました。
おそらくそれを覚えていらした方がとっさに助けてくれたのだと思います。
のちに(震災後1年以上たってから)この女の子は
「あの時のおばさんがいなかったら私は死んでいた」
と真面目な顔で語っていました。
この子の中に強烈な思い出として、また良い経験として残るんでしょうね。
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さて、校庭にみんなが整列し終わり、名前の確認などをしましたが、
その間もひっきりなしに余震が来ていました。
本当にひっきりなしです。数分と間が空きません。
10分に一度くらいの割合で震度5程度の大きな揺れもありました。
この頃でしょうか。
学校へ子供を迎えに来た保護者のお父さんが、スマホを片手に情報を知らせてくれました。
「津波、10mだって」
は?10m?(もしかしたらこの時点で聞いた情報は6mだったかもしれません)
10mってどれくらい?
ここってだいたい海抜何メートルなのよ?
自分のいる場所が海抜何メートルの所なのかって意識したことありますか?
私のいた場所は仙台市の東部とはいえ、海との間に小高い山?もあるし、いくら何でもここまでは津波は来ないんじゃないかなあ、とは思ったものの確信は持てず。
その内に雪が降り始めました。かなりの勢いです。
子どもたちは帰り支度が終わっているので防寒対策もちゃんとできていましたが、私は飛び出してきたので上下ともジャージだけです。
同僚と話し合って、交代で校内にコートを取りに戻ろうということになりました。
(同僚とは私と同じ学習指導をしている補助の先生です)
先に同僚が行き、交代で私の番です。
でもね。ひっきりなしに余震が来ていて、しかも10分に1度くらいは震度5くらいの大きな揺れなんですよ。
室内に戻るのはすごく怖い。
でも服が無くて寒い。
3分でいいから大きな揺れが来ませんように!!!
そう願って走りだしました。
ドアから職員室に駆け込み、机の上からスマホをGET。
職員室から廊下にでると、あちこちのドアが外れて廊下に散乱していました。
職員室のドアもです。
ぴょんぴょんと倒れているドアを飛び越え、斜め向かいのロッカー室に入ります。
この時気がついたのですが、校内のロッカーは倒れないようにちゃんと固定されていました。
(後で気がついたのですが、保健室の大きな戸棚もしっかり固定されてるんです。学校って素晴らしい!)
とは言え、狭いロッカー室で大きな揺れが来て閉じ込められたりしたら絶対に嫌なので、焦りながらジャージの上からオーバーパンツを履き、上はダウンコートを羽織りました。
また同じ廊下をぴょんぴょんと通って職員室へ。
ちらりと見た職員室は悲惨でした。
職員用のスチールの丈夫な机がひっくり返り、パソコンは床に落ち、とにかくめちゃくちゃ。
一次避難!の時に表に走り出していて正解だったかもしれません。
頭の上にパソコンが降ってきてたら……ぞっとします。
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家族との連絡はとれないまま
iPhoneを持ち出せたので、息子と主人に何度もかけてみましたが、全くつながりません。
その内、スマホの充電が心もとなくなってきてしまいました。
この日に限って充電し忘れていたことをどんなに悔やんだか。
ただ、幸いにもこの日、主人は四国に出張予定だったため午前には空港から飛び立っているはずでした。その点は非常に安心できました。
心配だったのは息子です。
公立高校の入学試験期間だったため、高校が休みで自宅にひとりでいるはずだったのです。
脳裏に、少し前にニュージーランドの地震で倒壊したビルの映像が何度もよぎりました。
うちのマンション古いし、とんでもない揺れだったし、マンション倒壊してたらどうしたよう。
胸がつぶれるくらい心配でしたが、どうしようもありません。
平気な風を装って子どもたちに接するしかありませんでした。
体育館へ移動
雪が酷くなってきて、全員で体育館へ移動することになりました。
体育館にはブルーシートが敷かれていました。
初めはみんな泥だらけの上靴(上靴のままとび出したので)を脱いで体育館に入ったのですが、床の冷たさにすぐに足が痛くてたまらなくなりました。
しばらくして見ると、いつの間にかみんな靴を履いています。
土足OKになったようです。
助かった!
体育館では担任の先生を子どもたちが囲むようにして集まり、何となく学年ごとに塊ができていました。
体育館にいる間も大きな揺れが何度も来ました。
そのたびに、上を見上げてグラグラと揺れているライトの下から移動して、を繰り返していました。
ライトだらけなので、ライトのない場所に全員が集まるってことは難しかったのです。
その内に非常用の毛布が出されてきました。
震えている子にはそれを使わせ、私と同僚は足踏みしてあったまる作戦をとりました。
上の方で書きましたが担任の先生が妊婦さんだったので、毛布を一枚渡してぐるぐる巻きになってもらいました(笑)。
先生、遠慮してましたが、おばさんたちは許しませんでした。
ぽつりぽつりと保護者が迎えに来ては、外の状況を教えてくれました。
近所の橋が落ちてしまっているので、う回路が渋滞していること。
半分にぱっくり割れた家があったこと。
学校の裏の川の土手が崩れかけていることなどなど。
なかなかお迎えが来ず
「きっと家がつぶれてお母さん死んじゃったんだ」
と泣き出す子もいました。
私の担当クラスの子だったので、ゆっくり話を聞きながら
「〇君の家は木のお家?学校みたいなコンクリートのお家?」
「学校みたいなの」
「じゃあ大丈夫だよ。学校だってつぶれてないでしょ。〇君の家もつぶれないよ」
「ホントに?」
「ホント。お母さんは大丈夫だよ」
そうなだめましたが、それ以外の場所にもしこの子のお母さんがいたら、私はウソを言ったことになるのかなあ……とぼんやり考えたりもしていました。
一旦まとめ
一番上の画像は、私が家に戻った時に目に入った場面です。
まだ家に戻ってもいないのに5000字を超えてしまいました。
続きは後日に。数回に分けて書きたいと思います。
次回は、家に戻るところと家の中の惨状が中心になりそうです。
よろしかったら、またお付き合いください。
続きはこちら ↓
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