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3.11⑤津波後の片付けと再び襲った激しい揺れ【東日本大震災・仙台】

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このシリーズもびっくりの5話目になりました。

こんなに長くなるとは……。今回は、津波に遭った主人の実家の片付けと、なかなかガスが復旧しない状況、そして4月の大きな余震の話です。

 

目次

 

 

   

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今までの話

今回は箇条書きで行っちゃいます!

 

・勤めていた小学校で震度7クラスの大地震が起きた!

仙台市の公式の震度は6強ですが、地域別の地図で見たら私のいた小学校は震度7に色分けされていました)

yuccow.hatenablog.com

 

・なんとか家に帰ると、家の中が悲惨なことに!

yuccow.hatenablog.com

 

・食料や水を求めて行列に並ぶ日々と従兄の行方不明の知らせ

yuccow.hatenablog.com

 

・出張先の四国からようやく帰ってこれた主人と食料を求めて山形へ

yuccow.hatenablog.com

 

ということで、前回は食料を求めて山形へ行ったことと、石巻の悲惨な状況のお話を書きました。

石巻は本当に大変そうで、酷いショックを受けた子たちはその後どうしたのだろうと思わずには、いられません。

震災の前年まで石巻の小学校で仕事をしていたので、担当していた子どもたちのことも、とても気になりました。

 

ガスのない日々

震災直後、ガスは絶望的で、復旧までに半年以上かかるだろうと言われていました。

それが、みなさんが知恵を出し合って解決策を見つけてくれたのでしょうね。

震災の1週間後くらいでしょうか。もっとずっと早く復旧できそうだと聞き、どれほどホッとしたことか。

 

とは言え、まだまだ当分ガスは使えそうにありません。

最初のころは水もなかったので、ペットボトルのウーロン茶で歯磨きしたりしていました。

1週間ほどで水が出るようになりましたが、ガスが無いのでお湯にはなりません。

飲む分は電気ポットで沸かせましたが、お風呂には入れませんでした。

仙台市内の温泉施設も津波で被害を受けたり、休業したりしていました。

 

主人は「水でシャンプーする」と言い出し、止める私たちを振り切って決行しました。

が、しばらくして洗面所から

「ぎゃぁぁぁ~~~!」

という声が(笑)。

二度と挑戦しようとしなかったところを見ると、かなり厳しかったのではないかと思います。

 

私は、毎日出かけるときは帽子をかぶり、髪が汚れにくいようにしていました。

あの頃は、一種の震災ファッションと呼ぶような恰好を、みんながしていました。

 

帽子にマスク、人によっては眼鏡をつけ、リュックを背負っているのが、そう。

 

ホコリと花粉が酷かったのに、お風呂に入れないという日々でした。

帽子とマスク、眼鏡でホコリと花粉を除ける。

リュックは足元がガレキだらけでも両手が使えるので歩きやすいし、食べ物や水の列に長時間並んでも平気。

また、出かけた先で偶然見かけた食べ物をゲットした時にも持って帰りやすいのです。

 

示し合わせたわけではないのに、みんな同じような格好をしていたのが印象的でした。

 

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津波に遭った主人の実家

主人の実家は海から50mほどのところにあります。

海との間には小さい工場が1件あるだけです。津波の被害をまともに受けました。

主人の両親は、幸いいち早く高台にある親戚の家に避難していて難を逃れました。

が、家は1階のほとんどが水没し、壊れていました。

私たちが片づけに行ったときには無くなっていましたが、津波の直後は、門のところにどこかのプレハブ小屋が突っ込んでいたそうです。

 

玄関のドア(横に引いて開けるタイプのガラス戸)は、外れて壊れており、

庭に面したアルミサッシの大きな窓(180㎝の高さのあるやつ)は、窓枠がぐにゃぐにゃに曲がっていました。

 

家の中は、一面の泥。

 

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それも普通の泥ではなくて、べたべたとした油の混じったヘドロだらけでした。

冷蔵庫やタンスは元あった場所が分からないくらいに流され、横倒しになっていました。

ひとことで言うと

家の中全体が、ヘドロで洗った巨大な洗濯機の中身

みたいでした。

手分けして、ヘドロの中から貴重品を掘り出し、使えるものと使えないものに分けていきました。

窓もドアもない中での作業です。

数時間経つと、寒くてなかなかツライものがありました。

持って行ったお湯で入れたカップスープが美味しかったのを覚えています。

 

この時は片づけるのに必死で写真を撮ることを思いつきませんでした。

なので写真はナシです。すみません。

 

 

   

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ガスの復旧

ガスが復旧したのは3月の下旬ころでした。

それまでは、毎週末に車で山形との県境にある公営の入浴施設に行って、しのいでいました。

ガスの開通が近くなったある日。ガス会社の方が、元栓を閉めに来てくれました。

(元栓が開いていると、ガスが開通した時に危険なので、1軒1軒回って閉めていくのです)

我が家に来てくれたお兄さんの胸には「長野ガス」の字がありました。

長野の方が、協力に来てくださっていたんですね!

反対に、ガスの元栓を開けに来てくれたのは「大阪ガス」の方でした!

本当に全国から助けに来てくれているんだと思い、涙が出そうになりました。

 

壊れた家具を捨てる場所(大き目の公園がそういう場所に充てられていました)で、陣頭指揮を執っていた方も関西弁でした。

全国からの応援、本当に心強かったです!!!

 

2度目の大地震

家中のガラスのカケラも全部掃除が終わり、壊れた家具などの大きなゴミも出し終わってホッとしたのが、4月の初めごろでした。

主人は、それまでいた石巻の勤務先が6mの津波で跡形もなくなり、札幌の営業所への転勤が決まっていました。

石巻は工場と事務所だったのですが、2階建ての建物の2階の天井くらいまでの津波が来て、建物は跡形もなく消えてしまいました。

主人が引っ越しをする数日前のこと。

4月7日だったと思います。

夜の11時半くらいだったでしょうか。再び激しい揺れが来ました。

仙台では震度6強

3.11の時と比べて、揺れた時間は短かったですが、かなりの揺れでした。

今度は家族全員そろっている時だったので、余計な心配はせずに済みました。

ただ、家の中は、また元通りのぐちゃぐちゃな状態に。

いえ、前回よりも家具や家の中の壊れた度合いは増していました。

 

ダイニングキッチン

 

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ようやくガラスや陶器のカケラを全部きれいにしたところでした。

 

本棚

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本も全部棚に戻して片づけ終わったばかりでした。

 

寝室

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ひっくり返っているのは私のドレッサーです。(/_;)

今も傷だらけのまま使っています。

 

洗面所

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3.11で空いた穴がさらに大きくなっています。

分かるでしょうか?

 

左側:3.11の時。右側:4月の余震。

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本棚も比べてみると分かりやすいかも。
左:3.11 右:4月

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ガラスの扉がなくなっているのが分るでしょうか。

4月の余震のあとに撮った本棚の写真がこちら⇓

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ガラスが割れて、ガラス扉自体も壊れて外れています。

向かって右側の扉の枠だけが、半分残っていますね。

 

この余震は精神的にきつかったです。

ようやく片付け終わってホッとした瞬間に、また逆戻りですもん。

電気もしばらくの間、また通じなくなりましたし。

私を含めて、この余震の方が3.11よりもきつかったという人は多いです。

 

なぜ、突っ張り棒などで地震に備えなかったのかと言われそうですが…。

この時住んでいたマンションの構造上、天井がふわふわで、突っ張れなかったんです。

一応食器棚や本棚の下に噛ませる形の耐震グッズは使っていましたが、この揺れには効きませんでした。

もし、ご自宅がタンスなどを突っ張ることができる構造なら、今すぐにでも対策されることをお勧めします。

 

 

 

 

学校が再開

また新たに出た震災ゴミを公園に運び込むと、主人はこの直後に新しい赴任先の札幌に行ってしまいました。

私がずっとあこがれていた土地です。

え!この連日余震が襲う中に私と息子を置いて札幌に行っちゃうの!?

という気持ちを書いたのがこちら⇓

yuccow.hatenablog.com

 

4月の末近くになって、ようやく学校が再開し、私も勤めを再開しました。

しばらくは、給食もなく、一日に何回も余震に襲われ、その都度みんなで机の下に潜る日々でした。

7月くらいになると、ガレキに発生したハエがすごくて、給食をハエから守りながら食べる日々が続きました。

子どもたちはたくましくて、廊下を歩いている時に余震が来ると、4年生が1年生を空き教室に引っ張って行き、そこの真ん中でしゃがませているのを目撃したこともあります。

※がらんとした空き教室の真ん中は、倒れてくる物もなく、窓ガラスからも離れているので廊下にいるよりは安全なのです。

あの時期を一緒に過ごした子どもたちのことは、忘れられません。

もう高校3年生になりますが、ありがたいことに、今でも手紙をくれる子がいるんですよ。

 

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忘れられないあるシーン

震災の2か月後くらいに今でも忘れられない、印象的な出来事がありました。

イ@ンで買い物している時のこと。

高校生くらいの女の子が、別の女の子を見かけて

わぁ~

と声をあげて走り寄りました。

普通なら「久しぶり~!元気ぃ?」と両手を握るなりなんなりするシーンです。

そんな場面、よく見ますよね?

 

でも、この時は違っていました。女子高生は

うわ~!生きてたんだ!良かったぁ

と、涙声でもう一人の子と両手を取り合ったんです。

 

それが、おかしくも不思議でもない状況に、今自分がいるということが、とても不思議な感じがしました。

 

その後

震災後の時間はちょうど半年間分くらい記憶から抜けています

記憶からというより、感覚から抜けているんです。

震災の直前に有った出来事を1年後に思い出した時に、半年前くらいの出来ごとのような感覚がするんです。

ちょうど半年分の時間が、意識から切り離されているというか。

感覚にズレがあるんですね。

どうしてなんだろうと、考えたのですが、たぶんホームセンターなどが再開して生活がほぼ普通に戻れたのが、震災から半年後くらいだったからではないかと思います。

非日常の日々は、別の次元のこととして記憶に刻まれているのかも。

 

それも9年経った今では、誤差のうちになってしまいましたけど。

 

震災の2年後に私も札幌に引っ越しました。

札幌でも子ども相手に勉強を教える仕事に着きましたが、教室の物の配置など、正直に言うと、防災の点で「うわあ。これはマズイだろう」と思うことも多かったです。

(学校ではありません)

一応「これは危ないですよ」と伝えたものの、真剣には受け取ってもらえず。。。

大きな地震を体験したことがあるのとないのの、違いをひしひしと感じました。

 

まとめ

5回にわたる長々とした話にお付き合いくださいましてありがとうございました!

私の体験が、どなたかの何かの参考になればと思います。

もし、これを読んで当時のことなり、防災のことなり、ご質問があれば何でも、コメント欄などからいただければと思います。

日本中で地震のないところはないと思います。

今、この瞬間にどこかで起きていてもおかしくありません。

特に、西の方の方々は南海トラフが危険と言われていますよね。

津波に対する警戒もですが、普段から家具の配置など十分お気を付けください。

後日、防災グッズについての記事をリライトして上げる予定です。

また、お付き合いくださればうれしいです。

 

 

   

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